井の頭線の駅の一つである駒場東大前駅をご紹介します。駒場東大駅前は名前からも分かるとおり、東京大学駒場キャンパスに隣接しています。路線をはさんで北側一帯は東大の敷地となっています。東大のほかにも教育機関が集まっており、学生が歩く姿がよく見られます。また住宅地でもあるために非常に静かな場所なのですが、コンビニや書店が少なく学生は少々不便さも感じる面もあるかもしれません。駒場東大前の駅前から神泉駅方面には昔ながらの商店街があり、小規模な商店が連なっています。また駒場東大前駅は京王電鉄の駅で唯一目黒区に設けられている駅でもあります。
駒場にも東大にもその卒業生(比較云々ではなく)でも無い人がどう楽しめばいいのでしょうか? ゴシップにしては他者への訴求性が感じられないし、某氏と著作の数を競うのも(もちろんジョークでしょうが)なんのために……? 美人学者のことを書かれてもイメージが浮かびません。(NETで検索しろということ?)小谷野さん、最近ヘンです、書かれるものが……。
「駒場学派というのは、そこを拠点とした、比較文学比較文化という研究室と、東大比較文学会という集まりのことをさす」(8頁)。本書は、そこに集った「御三家」(芳賀徹、平川広、小堀桂一郎)或いは「四天王」(亀井俊介を加えた四人)の学者としての横顔を軸に、駒場学派の歴史と学者たちの生態を描いたゴシップ好きには堪らない一書である。
一読して、高名な学者の持つ世俗的な、というか余りにも世俗的過ぎる性格(例えば、嫉妬心や功名心)と客観的な成果はともかく研究に打ち込むある意味禁欲的高踏的な生き方との対比の鮮やかさが、ヒューマン・ウオッチング好きにはこたえられない。事実は小説よりも奇なり。人間存在の妙味について、いろいろと考えさせられた。
「忘れもしない、私が、大学での第二外国語がドイツ語だと言ったら、芳賀が「なあんだ、出自は卑しいんだね」と言ったことがある」(129頁)。「医学部あたりでは、秘書の女性はたいてい教授の慰みものになっているなどという話もある」(218頁)。「「駒場学派」は、後継者選びに失敗した、という観は否めない。御三家のように、軋轢を生んでも、そのことで活気をもたらすというタイプの人ではなく、・・・・・・ 学者としてのあくの強さがなく温厚な調整型の人を選んだ時に、それは始まっていたとも言える」(286頁)。それにしても、本書中の数多くの挿話で描かれた島田謹二氏の豪放さは、正に別格。(おそらく内面的には相当繊細な方だったのではないかと想像するが・・・)
小谷野の反・禁煙活動を全面的に支援したいし、『聖母のいない国』などの仕事には敬意を表するが、本書にはほとんど共感を得られなかった。それは何、大した事情ではない。評者が東大とも駒場とも何ひとつ縁がないからだ。
「東大駒場学派」には文学部比較文学課の特殊な成立事情が絡んでおり、そこを出た学者達の著書には親しんでいても、その出世事情にはいまひとつ興味を掻き立てられなかった。普段はこうした学者や文壇のゴシップ物も喜んで読むほうなのだがなあ。最後まで読むのが、大変辛かった。
平川祐弘といった文学者、村上陽一郎といった科学史家も、様々な矮小な大学内政治事情のあれこれに翻弄されていたというようなことは、実際にはその業績と密接したものなのだろうが、そしてまた、そうしたスキャンダルめいたゴシップへの嗜好が健全な歴史観を形成する面もあるのであろうが、本書の記述へ興味を抱く向きは東大OBか駒場オタクしかいないのではないだろうか。
まあ、これではレビューにもならないか・・・。